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蒼穹ぬムリカ星~琉球的徒然草~

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島唄考4~唄が生きている~

 沖縄県外では民謡といえば昔の曲というイメージに対して、沖縄では今も毎年多くの民謡が生まれることから、よく民謡が生きていると表現されます。新しい曲が生まれるという以外にも生きているということには、もっといろいろな意味があると考えています。

 「十九の春」という歌があります。もともと明治末期に国内で流行していた「ラッパ節」という男女の恋を扱ったハイカラな歌でしたが、沖縄・奄美から出稼ぎに来ていた人々がその歌を島に持ち帰りました。その歌が与論島では「与論ラッパ節」~「与論小唄」となり、その歌が沖縄本島に持ち込まれ、「ジュリ小小唄」~「十九の春」となり、その「十九の春」が逆輸入(?)されて再び国内で流行しました。まさに唄は生きているんだということを感じさせます。

 このエピソードに限らず、古くから伝わる多くの島唄が、土地により、時代により、姿形を変えながら伝わっていくという性格を持っています。民謡の古典と呼ばれる曲でさえ、三線という楽器が伝わる以前の姿の唄が存在しているのです。

 時代に合わせて姿を変えることが、必ずしもいいことではないでしょう。その過程で失われていくことも多くあります。現在まで伝えられなかった無数の唄が存在したはずです。何が大切であり、何を残していくのか、難しい問題です。それならば全てを残せばいいではないか、という単純なものでもありません。文字や映像などの記録として残せても、人々の心には残せないのです。

 唄ではありませんが、沖縄本島で盛んにおこなわれるエイサーという芸能があります。もともとはお盆の餓鬼供養という仏教色の強い踊りでした。戦後、各地の青年会が一同に集まり踊りの優劣を競い合うコンクール、全島エイサー大会(度々、審査について問題となり、現在は演舞のみおこなわれている)をきっかけに、現在のような派手な衣装にダイナミックな動きという、より多くの人にみせる踊りへと変貌しました。
 本来の宗教儀式的な意味をなくしカッコ良さだけを求めるエイサーに対して否定的な声があります。一方で地元の若者達を惹きつけ、県外でも沖縄文化を強くアピールできる芸能として評価する声があります。
 どちらも正しい意見でしょう。ただ、昔ながらのスタイルでなければいけないとされていたなら、ここまで広がりをもつことはなかったのではないでしょうか。昔のものがダメなわけではありません。伝統色の強い平敷屋エイサーなど、みていて素晴らしいと思います。ただ、現代的なエイサーのほうが、より世間に受け入れられやすいのです。
 
 このことは唄三線の世界と、よく似ていると思います。もし唄三線が古くからある民謡や琉球古典のみしか存在していなかったら、おそらく一部の愛好家のためのものになってしまった県外の民謡と変わらない状況になっていたのではという気がします。

 生物の話になりますが、姿も形も生態も全て同じという種の集団は、適した環境のなかでは繁栄を続けます。しかし、そうした集団は急激な環境の変化が起こったり、あるいは致命的な悪性ウイルスなどが侵入した場合、絶滅する危険性が高いとされています。一方、その種に集団とは違う様々な個性的な亜種が存在していた場合、普段は異分子、少数派と目立ちませんが、非常時の環境に適応できる亜種が存在するかも知れず、種そのものの絶滅を免れやすいそうです。
 
 最近の研究で姿形は違いますが鳥は絶滅してしまった恐竜の直系の子孫ではないかといわれています。過去の唄とされることが多い日本の民謡のなかで、島唄は大空を舞う鳥の姿とだぶってみえます。
by chunse | 2005-02-06 01:20 | しまうた雑感

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